イースターの信仰告白とバプテスマ(洗礼)式



4月16日のイースターに信仰告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けられたYさんの信仰告白をご本人の承認を得て、掲載いたします。日本人のだれもが思うことを経て、神の愛をありのままに受け入れる決心に導かれました。


信仰告白  Y.Y.

多くの祈りに支えられて今この時を迎えることができることを感謝します。
神の計画ではこれまでの57年は、新生しこれから始まる人生のための序章であったという事であり、ここに立っていることが感慨深くもありまた不思議な気持ちですが、「さぁ向こう岸へ渡ろう」 (マルコ福音書435)

どんな嵐が来ようとも私と共にあれば必ず渡れる、さぁ行こうと主イエスが傍らにあってそっと背中を押してくれています。

以前放映されていたドラマのエンドロールで「神は乗り越えられる試練しかあたえない」 (コリント人への第一の手紙1013)というナレーションがながれ、ここに導かれる事になる御言葉との出会いとなりました。

神の導きによりIJCSを紹介されて201461日にはじめて礼拝に参加しました。しかしすぐ来てしまった事を後悔しました。なんとも場違いな自分を感じたからです。 立ったり座ったりするうちエスケープするタイミングを逃し、伊藤先生の創世記1章の説教が始まりました。「見よ、それは極めて良かった」今も耳に残っていますが壮大な創造の物語にふれ、だれもが神に良しとされて生まれてきたという言葉に勇気をもらい、豊かに生きるため聖書について知りたいと時々礼拝に参加するようになりました。そしていつからか賛美歌は歌えなくてもその中に身をおいていると海中を漂うような心地よさをを感じるようになりました。
聖書の学びを始め御言葉にふれていくうち、豊かに生きるために御言葉を知りたいというのは欲求からくる自己中心の考えであり、そうではなく御言葉を知ることを通して神によって豊かに生かされると感じるようになりました。
しかし素直に受け入れないこともありました。たとえば
「姦淫するなかれ」新約では情欲を抱いて見ただけでもだめと厳格で、現在のアダムから見ればエバの子孫である女性を愛おしく思うことは自然であり、情欲を抱のも自然な事で、自分にはとても無理,破戒前提の信仰はありえないと思いました。
また、私たち日本人 には自然を敬う神話の土壌に仏教、儒教や多くの文化を受け入れて育まれた豊かな精神文化があります。無宗教に見えても信仰は生活慣習となって根付き, これを捨てる事は自分にはできないため、三位一体の神を唯一のものとするクリスチャンとなることは心の筋が通らない。しかし以前より豊かに生かされることを確実に感じる事ができるから、敢えて羊の群れに入らなくてもこのままイエス様のシンパ(ファン)としての関係でいいと考えていました。
そんな中で、本年度主題聖句にもなっている「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの第一の手紙410) という御言葉に出会い、視界が晴れました。  何を迷い何を悩んでいるんだろう、神が私たちを愛してくれている、ひとり子を私たちの罪を償うために差し出されるほどにきれいごとではなく頑なに愚直なまでに愛されている、これがすべてでこれ以上何も求めるものはない、と

「姦淫するなかれ」この厳しいREGULATIONは神様以外に守れる人間なんていないからこの事をだけでもみんな神の前では罪人であると教えられます、また自分がこだわる日本人の心は大切にしてうまく整合つけてやればいいわけで、そんな事より何より「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛した」この愛に向かい合い応えていくのが良しとされて生まれた私たちに必要な事ではないかと考えるようになりました。

この限りない愛を受け入れて罪を赦された今、主イエスキリストを救主と仰ぎ共に歩むことを誓います。

ここに集う人々やその家族、友人達がどうかすこやかでありますように。           私たちが一歩が踏み出せず進めない時には恐れるなと背中を押してください。ともすれば神から心が離れそうな時はどうか叱ってください。そして私たちが傷つき疲れたときにはあなたのもとで休ませてください。

主イエスキリストの御名によってお祈りします。  アーメン

 

 

 

 

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